アフォリズム58:最も強い者が生き残るのではなく…

2019.04.14 Sunday 23:30
0

    最も強い者が生き残るのではなく、
    最も賢い者が生き延びるのでもない。
    唯一生き残るのは、変化できる者である。

     

    チャールズ・ダーウィン

    category:東洋医学・東洋哲学 | by:坂本ヒロミツ | - | trackbacks(0) | -

    細野晴臣『地平線の階段』「新たな平野が拡がる」

    2019.04.12 Friday 23:30
    0
      細野晴臣大瀧詠一松本隆鈴木茂による伝説のバンド、はっぴいえんど
      彼らがそうであったように、世の中にその存在を広く知られていくのには、時間がかかる。

      新しい音楽に触れていたであろう松任谷由実(当時は荒井由実)でさえ、はっぴいえんどをリアルタイムには知らなかったらしい。

      小山田圭吾小沢健二小西康陽を中心とする渋谷系が、はっぴいえんど、小坂忠などによるオリジナリティの高い猿真似ではない音楽を敬愛する、平成初頭を迎えるまで(はっぴいえんど解散の1972年から)かなりの時間差があった。

      昨日の記事にも書いたように、はっぴいえんど解散後、「…はて?」と小休止があった細野さん。YMO結成まで、細野さんにしか分からない苦労、紆余曲折があったと思う。

      しかし悲観的でなく、楽観的なのが細野さんの細野さんたるゆえんだろう。
      大好き。まるで『老子』や『荘子』の世界観。

      今年はYMO結成から40周年。
      記念すべき年だが、40年前に出版された細野さんの本『地平線の階段』から、こんな文章を引用します。

      新しい歩みを始めた私にとって、この文章は沁みます。そして「その通り」と肯首。
      (以下、引用始)
       
      平野に出ると、そこをひととおり眺めまわす。
      すると必ずそこに階段を見つけてしまう。
      見つけなければ楽なのだが、見つけてしまう。
      階段を見つけたら、それを登っていかなくては気が済まなくなる。
      で、登っていく。
      雲を突き破って行くと、そこにはまた新たな平野が拡がる。
      その平野は見るもの聞くもの新しく、
      新鮮で刺激に溢れ、情感を揺り動かされ、
      このような平野があったのかと驚かされる。
      細野晴臣『地平線の階段』(1979年)

      地平線の階段
      category:Music | by:坂本ヒロミツ | - | trackbacks(0) | -

      一生、東洋医学。 細野晴臣「住所不定無職低収入」

      2019.04.11 Thursday 23:30
      0

        みなさん。お久しぶりです。

        東京駅から徒歩1分、八重洲に東洋医学(漢方、針灸)・保険内科の旗をかかげて開業(院長:堀田)したのが2年前の7月。
         

        故あって閉院となりました。

        今後、上記クリニックについて、本ホームページで語ることはない。

        まずそこから始めます。新たな歩みを。
         

        一生、東洋医学。

        北里大学東洋医学総合研究所で学んだ煎じ漢方(湯液治療)を中心に。

        もし仮に、生薬がこの地上から消え失せても、針灸の道を。

        その覚悟はできています。

         

        とはいえ現在、わたしは無職です(笑)

        無職ではあるけれども本日、買ってきました。

        Ettingerの長財布

        1



         

        丸の内の伊勢丹サローネに好みの色がなく、エッティンガー銀座店にありました。

        2


         
        親切な店員さんでした。ありがとう。
        以前、記事に書いたようにお金は「ありがとう」
        だから「ありがとう」から始めます。 

        今日、吹きすさぶ風の中、晴天を見つめながら口ずさんでました。
        「住所不定無職低収入」(笑)
        現状は明るくないが、気持ちは明るい。
        はっぴいえんどが解散して、トロピカル三部作YMOに至る前夜の細野さんも同じ心境で、こんな曲を作ったのかもしれない。 


        細野晴臣「住所不定無職低収入」

         

        宝島の地図が最後の望み
        キャプテンクックの様に俺は今
        住所不定無職おまけに低収入
        category:開業 | by:坂本ヒロミツ | - | trackbacks(0) | -

        本日、開業いたします

        2017.07.03 Monday 00:00
        0

          大変、ごぶさたしております。

          生きております笑

           

          2月6日の記事で「詳細は後日」と記しつつ、本日を迎えました。

          本日9時30分に宣言通り、開業します。

           

          「八重洲地下街クリニック」

           

          東京駅八重洲中央口から徒歩1分の立地です。

          みなさまに愛されるクリニックを目指します。

          このブログの位置付けをどうすべきか、思案しております。

          まずは今後ともよろしくお願いします。

          (2019年4月11日追記:同院は2019年3月29日をもって閉院しました)

          category:開業 | by:坂本ヒロミツ | - | trackbacks(0) | -

          私、東京駅近くに開業します(2017年7月予定)

          2017.02.06 Monday 00:00
          0

            私事ではありますが、お陰様で東京駅近くに開業することとなりました。

            着々と準備を進めております。

            詳細は後日、順次更新してまいります。

             

            【日時】2017年7月(予定)

            【場所】東京駅改札から徒歩1分

             

            2012年12月29日から始めた、このブログですが、

            節目にあたり自己紹介以外の記事(約570件)を

            一時非公開とします。

            時期をみて再公開する予定です。

             

            皆様に愛されるクリニックにすべく、ますます精進し努力いたします。

            ご支援ご鞭撻よろしくお願い申し上げます。

             

             

             

            (2017年3月1日追記)

            ファンである小沢健二のメディア露出が多くなってきたため、今まで書いた記事の一部を公開します。

            category:開業 | by:坂本ヒロミツ | - | trackbacks(0) | -

            自己紹介「坂本ですが?」-1

            2017.02.05 Sunday 00:00
            0

              坂本ですが?今年の元旦から始まった「どうよ東洋」、1Q(四半期)を終えた私です。私ですか?「坂本ですが?
              漫画の高校生、坂本のようにスタイリッシュに生きています(・・・April fool続いてます)。

              さて、元旦の記事で「詳細な自己紹介は、また後日に」としながら、ここまで引っ張ってきました。左のprofileに目を通してもらえば、大体の坂本ヒロミツ像は分かるかと思います。3ヶ月分の記事中にも少しずつ、自己紹介を散らしてます。


              ちなみに尊敬する人からペンネーム「坂本」を名乗りますが、大方の予想を裏切り、坂本龍一の坂本ではあ〜りません!坂本教授が大好き、尊敬する人には違いありませんが、由来は別にあります。これは将来、私が本を書きたいと思っている人物なので、その名前はまだ自分の中だけに収めておきます。

              父は牧師、母は宣教師(共に日本人ですよ)で、生活は楽ではなかったはず。幼稚園は出ていません。そこの、お受験ママ!大丈夫。幼稚園なんか出なくたって医者になれる!「ハッキリ言うけど、タコの芸歴なんて関係ない!」(東京イミフハイスクール)。

              親が目を離したスキに、母子手帳をてんぷら油の中に投入するという離れ業を、私、幼児期に達成しました。たぶん全国の小児科医を集めても、そんなバカな子に出会った者はいないでしょう。当然ですが、実家に保存される私の母子手帳はセピア色です。カセットテープを分解したり、好奇心旺盛な子だったそうです。

              私が幼少時、脳炎を患った時、主治医は両親にこう告げました。「覚悟して下さい。死んでもおかしくない植物状態(寝たきり、意思疎通のはかれない状態)になる可能性が高い。」…でもこうして生きてます。ちょっと変わり者なのは、この時の後遺症でしょう!

              幼少期〜小学校時代は病弱で、特に小学校1年生の時、あまりに病欠日数が多いため、留年(原級留置)となるはずでした。ところが、担任のK先生が「大丈夫。私が責任を取ります。」と職員会議で身を盾にしてくださり、無事進級したのでした。他界されたK先生、心から感謝しています。

              その小学校1年生の時、ある少年と運命的な出会いをします。(明日に続く

               

              再掲記事【2013年4月2日1時】

              category:自己紹介 | by:坂本ヒロミツcomments(0)trackbacks(0) | -

              自己紹介「坂本ですが?」-2

              2017.02.04 Saturday 00:00
              0

                坂本ですが?-5昨日記事の続き)
                小学校に入学した直後、私は同じクラスのアクツさんに初恋をします。…いやいや(×2)、そこじゃなかった。M君に初めて出会います。彼は私の生涯を左右したkey manです。近所に住んでいたんですが、お互い病弱だったのと、自分が幼稚園に通ってなかったため、それまで遭遇しなかったんですね。

                M君は、ある病気をかかえていました。同じクラスになった2人は、活気のある小僧たちと行動を共にすることは少なく、図書館やら教室やらインドア派、悪く言えばネクラ(これも死語か?)だったと思います。それでも楽しかった。

                通っていた小学校、山の上にあるんです。街を見下ろせるくらい高い山で、通学するのも一苦労でした。

                私が脳炎を患った話をしましたね。無事、退院したのですが、通学を許可するために小学校側が両親に提示した条件は、1学期は自家用車で送り迎えすることでした。もの悲しいVIPやね〜。1学期も過ぎ、晴れて自家用車を卒業しました。体力がない自分、坂道を登るのがきつかったのを覚えています。

                そんな私にとってのペースメーカーがM君でした。病気のM君、歩くのが残念ながら遅いんです。ですが、彼にとっても私はペースメーカーだったのでしょう。彼と歩くのが楽しくて、ゆっくり歩きながら道端の小川やらタンポポやら、みんなが見落としているものを見ていたような気がします。お互いが一番の親友でした。

                その後3年が過ぎ小4の春、車で約1時間離れた地へ、親の仕事の関係で転居しました。それまでに気管支喘息で「アスゲン」という漢方製剤にお世話になったり、バンキーという吸い玉(東洋医学の一手法)を親に施行されたり、病弱三昧(←「食いしん坊バンザイ」みたいでイイなぁ)だった私ですが、転居した頃はめでたく第二次性徴期にさしかかっており、もう学校はほぼ休まなくなっていました。でも「前へならえ!」の号令で両手を挙げることができず、一番前で右手を腰にあてる役割をスタイリッシュにこなす私でした。

                一方、その頃のM君は少しずつ病気が進行し、1人で通学するのが困難な体力になりつつありました。小6の頃だったと記憶しているのですが、学校へ通うことができなくなり、自宅へ先生が来てくれる自宅学習となりました。M君は友人とは疎遠となり、自宅に遊びに来るのは私だけとなりました。

                父の車に乗せてもらい、春休み、夏休み、冬休みを利用して、互いの家へ遊びに行くのが、お互いの楽しみとなりました。そんな関係は高校卒業まで続きます。毎年ね。珍しい関係でしょ?遠距離恋愛もここまでは続かんわなぁ。(明日に続く

                 

                再掲記事【2013年4月3日0時】

                category:自己紹介 | by:坂本ヒロミツcomments(0)trackbacks(0) | -

                自己紹介「坂本ですが?」-3

                2017.02.03 Friday 00:00
                0

                  坂本ですが?-3【右画像:佐野菜見『坂本ですが?』】

                  昨日記事の続き)
                  M君、ものすごいハニカミ屋さんでした。なので、遊びに行くと必ず人生ゲーム、ファミコンなどのゲームをしました。マリオなど、ね!懐かしいっす。

                  当時、(少年ジャンプみたいな)月刊コロコロコミックという漫画集に、「ゲームセンターあらし」があり、「ギャラクシアン」「パックマン」などのゲーム攻略に繰り出す技があって、「ウォーッ!●●〜!」など技名を連呼、バカ笑いしながらTV画面に立ち向かっていました、2人。

                  地方の公立中学を出て、公立高校に入学した私、まだ進路は決まっていませんでした。

                  音楽好きが昂じてバンドの掛け持ちをしたり、部活したり、テキトーに過ごしていたのですが、高校2年の時、真剣に自分に向き合った結果、医学部を目指すことにしました。

                  自分が死の淵を歩いたこと、徐々に動けなくなっていくM君に接しながら、考え抜いた帰結でした。それから約1年半は、もう死に物狂い!明けても暮れても勉強。でも時既に遅し!現役合格はできず、浪人生活に入りました。

                  東京に出た私、裕福な家庭でもなく、1年間限定の約束で「背水の陣」だったため、精神的な余裕がなかったんでしょうね。M君の家に行くことはできませんでした。その代わり手紙のやり取りをしていました。

                  浪人生活半年を過ぎた10月末、「M君が亡くなった…。前日の夜までは普通だったけど、朝布団で冷たくなっていた」と突然の訃報が、電話で告げられました。青天の霹靂。(明後日に続く

                   

                  再掲記事【2013年4月4日5時】

                  category:自己紹介 | by:坂本ヒロミツcomments(0)trackbacks(0) | -

                  自己紹介「坂本ですが?」-4

                  2017.02.02 Thursday 00:00
                  0

                    坂本ですが?-8【右画像:佐野菜見『坂本ですが?』】

                    一昨日記事の続き)
                    どこから書いて良いものやら…浪人当時の私、M君の突然死が信じられず、半信半疑で彼の家へ向かいました。相当混乱していたのか、故郷に戻った前後の記憶が不鮮明なのですが、彼の亡骸に対面したのは葬儀の日でした。

                    「あぁ、動かなくなるんだなぁ。生きているうちにしか、大切な想いって伝えられないんだなぁ。」という気持ちと、「M君、よく頑張った。つらい足かせがやっと取れたんだ。天国で飛び跳ねてくれ。」という思いと、「神様、あんた、なんで俺の親友を奪った!」という相矛盾する思いが、もうごちゃ混ぜになっていました。

                    葬儀に参列した友人は私1人、というよりも友人が私しかいない状態だったのです。M君の父は「●●君、ヒロミツくんが来てくれたよ〜」と笑って気丈に対応してくれたのですが、出棺直前になって「●●君!起きろ!起きてくれ!」と叫んでいました。

                    あの時の空は今でも忘れません。無情にも、ものすごく晴れ渡った青空だったんです。

                    東京に帰った私、民家を間借りする形で下宿していた4畳半の部屋で、積み重ねた布団の中で声を押し殺しながら泣いたことを覚えています。痛みがなくなったんで、もう書けるんですが。すみませんねぇ。こんな話をして。自己紹介の範疇をもう逸脱してるわ、とっくに。

                    お涙頂戴を狙っているんではないですよ、全く。むしろそれが嫌で、この話は封印してきました。以前、看護学校で小児科の講義を担当したことがあります。「なぜ医者になれたのか、その理由の1つはここでは絶対、話さない」と言いましたね…昔の教え子ら、お前ら、よ〜く聞け!それはM君がいたからさ!スタイリッシュだろぅ?

                    彼の遺してくれた手紙、家族から頂いたM君の写真、また弟が書いた机前の書「背水の陣」を見ながら残りの浪人生活を乗り越え、M君の死から5ヶ月後、国立大学医学部に入学しました。

                    故人は思い出す度によみがえる」という言葉があります。私が医者になる理由について、M君は父から聞いたのか知っていたらしく、現役合格できず落胆していた私に、彼は手紙をくれました。「●●君なら大丈夫」とあり、今でもその言葉に支えられています。できれば「現役合格したよ」と直接、彼に伝えたかったのですが、今の彼なら「もう、いいんじゃね?」と言ってくるかもしれません。思い出の中の彼は、いつも笑顔!(明日に続く

                     

                    再掲記事【2013年4月6日0時】

                    category:自己紹介 | by:坂本ヒロミツcomments(0)trackbacks(0) | -

                    自己紹介「坂本ですが?」-5

                    2017.02.01 Wednesday 00:00
                    0

                      坂本ですが?-9

                      昨日記事の続き)
                      浪人時代に『東京に原発を!』などの本で、原発の危険性を知っていた私、医学部に入ってすぐIPPNWというノーベル平和賞(1985年)を受賞した、核兵器に反対する医師の世界大会に行きました。当時の予備知識があったため、2年前の福島原発事故は「やっぱり起きたね」と非常に残念でした。

                      医学部1年で学祭に広島・長崎原爆のパネル展をやったり…まぁ真面目な面もある一方で、音楽好きな友人にいろんな音楽を教えてもらったり、体を張った芸を覚えたり、楽しい6年間でした。あっ!医学部は6年ね。留年なしヨン。

                      死にゆく人を看取るターミナルケアにも興味があり、内科か小児科、どちらにするかで迷いました。「小児科は忙しいだけで儲けも少ないし、お前にはもったいないぞ」と助言してくれた友人もいました。でも、幼少時に大病から生還したこと、他界したM君、あともう1点を思い、小児科医になることを決断しました。最後の1点は、また機会があったら記事にします。

                      その後、小児科の専門医を取得し、国立大学医学部附属病院で骨髄移植、臍帯血幹細胞移植、抗がん剤治療などの診療に従事しました。新生児医療、地域医療などほとんど網羅すべきことをやり、体も心も人間全体を診るクセがついたことは(まともな小児科医なら当然なのですが)本当に良かった。今の東洋医学、漢方診療に役立っています。消化器内科、血液内科、循環器内科…内科は際限なく分化していきますが、小児科はそんなことはあ〜りません!

                      「何でも屋」と揶揄される小児科医だから、何でも診ることができる東洋医学・漢方診療になじんだんでしょう。今、漢方の仕事が楽しくて仕方ないです。ワクワクしながら生きること。大切ですよね!

                      M君の話、重かった?そうだよねぇ。こんなepisodeがあるから医者としての資格があるとか、優秀な医者だ、なんて妄想を抱かれるのも不本意なんで封印してきたんだよねぇ。(明日の記事が、自己紹介ラスト)

                       

                      再掲記事【2013年4月7日6時40分】

                      category:自己紹介 | by:坂本ヒロミツcomments(0)trackbacks(0) | -