「びょうきはきらいだ」小学1年 坂本ヒロミツ

2016.01.10 Sunday 15:00
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    作文1「これは、あなたのさいふですか?」は、私が実家で大掃除した後に起きた惨事だったわけだけど…

    まぁいろいろ懐かしいものが出てくる!出てくる!

    この作文もその1つ。小学校1年の2学期末に書いたと思われる、私の作文

    以前、自己紹介(全6回-1)で述べたように私、幼少期に死亡もしくは植物状態になってもおかしくなかったんです。

    小学校1年生の時、病欠期間があまりに長いため留年するはずでした

    ま、詳しくは作文を読んでみてちょうだいな。


    作文2

    作文3

    作文4

    作文5

    作文6長文、おつかれ様でした。学会発表風に書くとこんな感じでしょうか。

    【症例は6歳男児。
    主訴は易感染症。既往歴に特記事項なし。現病歴です。X年3月、風疹性脳炎に罹患し某国立病院に入院。1週間持続するJCS3ケタの意識障害を伴いました。同年4月上旬に退院。

    以後麻疹、肺炎を含む反復する気道感染症、気管支喘息などにより入院を繰り返しております。…現症は…】

    …現在、彼はF10ライダーとなり、さっそうと世の中を走り抜け続けています…とかなんとか笑

    作文に出てくる小林先生は、私を留年とするか否か職員会議で検討中に「●●君なら大丈夫!」と発言し、それを阻止してくださいました。もうこの世にはいない先生。本当に感謝しています。


    「『僕はもうダメなんだ』と布団の中で悲しくなって泣きました。」

    「でも、何等でもいいんです。僕は自分の力で走ることができたのです。
    とっても、とっても、とっても、嬉しかった。」


    …う〜ん。それにしても、宮沢賢治の小説にでてくるような、絵本のような文章ですなぁ笑

    よーし!やるぞー!これからも!
    そして、死ぬときにもう一度思い出してみようと思うダヨ。
     

    「でも、何等でもいいんです。僕は自分の力で走ることができたのです。
    とっても、とっても、とっても、嬉しかった。」

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    自己紹介「坂本ですが?」-6 Pizzicato Five"Good Bye Baby & Amen"

    2017.01.31 Tuesday 00:00
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      昨日記事の続き)
      医師となって現代医学の良い面、悪い面にぶつかる中で、経験、伝統に根ざした医療の重要性に気付いた私は、2000年度、日本東洋医学会に入会しました。当時、時代の節目に立っていること、近いうちに現代医学が袋小路に入るであろうこと、を感じていました。その後すぐ、あの忌まわしい911が起きます。

      2001年3月末に解散したPizzicato Five、実質的な最後の曲にこんな歌詞があります。

      大好きだった20世紀 Bye bye Baby bye bye さよならサンキュー 愛してるよ バイバイ

      今でも聞くとせつなくなる曲で、当時の自分の気持ちに近い歌詞です。

      私は現在も、西洋医学の良い面は否定せず貪欲に吸収していますし、愛着がある医学であることは間違いありません。またその医学を生み出した大きな時代に立ち会えたことは、そしてまたその時代の終わり間際に起きた世界大戦に巻き込まれなかったことも、感謝すべきことでしょう。でも、そんな大きな時代にも、サヨナラ。

      2013年は後世、振り返ると大きなうねりが起きた年、として認識されるのでは?と直観があって、今年正月にブログをはじめました。あれだけ嫌いだったネット。こうして毎日、記事を書いているのが不思議!

      アンディ・ウォーホルが予想していた時代に突入してしまっているんですね。なりすまし(別人)に手を焼いた剛力彩芽ちゃんが最近、Twitterを始めましたが、negative(陰)な動機から自身の意見を発信する時代になっているんです。『リトル・ピープルの時代』。オザケンが子どもを授かりネットに発言したのも、その兆候のひとつです。

      ところで「計画的偶発性理論Planned Happenstance Theory)」って聞いたことあります?スタンフォード大学のクランボルツ教授が提唱したものです。その説によれば「個人のキャリアの8割は、予想しない偶発的なことによって決定される」そうです。

      もう半世紀といっても過言ではないこの40年強、振り返ると色々な出会いがありました。紹介したK先生、M君、今いろんな人の顔を思い出していますが、出会いって偶然なんだろうか?必然なんだろうか?いずれであっても、予想しない出会いで、私のように人生が変わってしまう者もいるってことは、間違いない事実です。

      君も私と同様、「さえねぇなぁ、この状況…」と思う出会いもあるでしょう。人やら仕事やら。でも、そのさえない出会いも、もしかすると何らかのcallingかもしれませんぜ。

      私もこれから半世紀弱、生き延びるかどうか分かりませんが…新しい出会い、まだ知らない君を思いつつ、未知の自分に出会いながら、頑張ります!忙しくて更新遅れて御免!

      Pizzicato Five"Good Bye Baby & Amen"

       

      再掲記事【2013年4月8日23時40分】

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      自己紹介「坂本ですが?」-5

      2017.02.01 Wednesday 00:00
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        坂本ですが?-9

        昨日記事の続き)
        浪人時代に『東京に原発を!』などの本で、原発の危険性を知っていた私、医学部に入ってすぐIPPNWというノーベル平和賞(1985年)を受賞した、核兵器に反対する医師の世界大会に行きました。当時の予備知識があったため、2年前の福島原発事故は「やっぱり起きたね」と非常に残念でした。

        医学部1年で学祭に広島・長崎原爆のパネル展をやったり…まぁ真面目な面もある一方で、音楽好きな友人にいろんな音楽を教えてもらったり、体を張った芸を覚えたり、楽しい6年間でした。あっ!医学部は6年ね。留年なしヨン。

        死にゆく人を看取るターミナルケアにも興味があり、内科か小児科、どちらにするかで迷いました。「小児科は忙しいだけで儲けも少ないし、お前にはもったいないぞ」と助言してくれた友人もいました。でも、幼少時に大病から生還したこと、他界したM君、あともう1点を思い、小児科医になることを決断しました。最後の1点は、また機会があったら記事にします。

        その後、小児科の専門医を取得し、国立大学医学部附属病院で骨髄移植、臍帯血幹細胞移植、抗がん剤治療などの診療に従事しました。新生児医療、地域医療などほとんど網羅すべきことをやり、体も心も人間全体を診るクセがついたことは(まともな小児科医なら当然なのですが)本当に良かった。今の東洋医学、漢方診療に役立っています。消化器内科、血液内科、循環器内科…内科は際限なく分化していきますが、小児科はそんなことはあ〜りません!

        「何でも屋」と揶揄される小児科医だから、何でも診ることができる東洋医学・漢方診療になじんだんでしょう。今、漢方の仕事が楽しくて仕方ないです。ワクワクしながら生きること。大切ですよね!

        M君の話、重かった?そうだよねぇ。こんなepisodeがあるから医者としての資格があるとか、優秀な医者だ、なんて妄想を抱かれるのも不本意なんで封印してきたんだよねぇ。(明日の記事が、自己紹介ラスト)

         

        再掲記事【2013年4月7日6時40分】

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        自己紹介「坂本ですが?」-4

        2017.02.02 Thursday 00:00
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          坂本ですが?-8【右画像:佐野菜見『坂本ですが?』】

          一昨日記事の続き)
          どこから書いて良いものやら…浪人当時の私、M君の突然死が信じられず、半信半疑で彼の家へ向かいました。相当混乱していたのか、故郷に戻った前後の記憶が不鮮明なのですが、彼の亡骸に対面したのは葬儀の日でした。

          「あぁ、動かなくなるんだなぁ。生きているうちにしか、大切な想いって伝えられないんだなぁ。」という気持ちと、「M君、よく頑張った。つらい足かせがやっと取れたんだ。天国で飛び跳ねてくれ。」という思いと、「神様、あんた、なんで俺の親友を奪った!」という相矛盾する思いが、もうごちゃ混ぜになっていました。

          葬儀に参列した友人は私1人、というよりも友人が私しかいない状態だったのです。M君の父は「●●君、ヒロミツくんが来てくれたよ〜」と笑って気丈に対応してくれたのですが、出棺直前になって「●●君!起きろ!起きてくれ!」と叫んでいました。

          あの時の空は今でも忘れません。無情にも、ものすごく晴れ渡った青空だったんです。

          東京に帰った私、民家を間借りする形で下宿していた4畳半の部屋で、積み重ねた布団の中で声を押し殺しながら泣いたことを覚えています。痛みがなくなったんで、もう書けるんですが。すみませんねぇ。こんな話をして。自己紹介の範疇をもう逸脱してるわ、とっくに。

          お涙頂戴を狙っているんではないですよ、全く。むしろそれが嫌で、この話は封印してきました。以前、看護学校で小児科の講義を担当したことがあります。「なぜ医者になれたのか、その理由の1つはここでは絶対、話さない」と言いましたね…昔の教え子ら、お前ら、よ〜く聞け!それはM君がいたからさ!スタイリッシュだろぅ?

          彼の遺してくれた手紙、家族から頂いたM君の写真、また弟が書いた机前の書「背水の陣」を見ながら残りの浪人生活を乗り越え、M君の死から5ヶ月後、国立大学医学部に入学しました。

          故人は思い出す度によみがえる」という言葉があります。私が医者になる理由について、M君は父から聞いたのか知っていたらしく、現役合格できず落胆していた私に、彼は手紙をくれました。「●●君なら大丈夫」とあり、今でもその言葉に支えられています。できれば「現役合格したよ」と直接、彼に伝えたかったのですが、今の彼なら「もう、いいんじゃね?」と言ってくるかもしれません。思い出の中の彼は、いつも笑顔!(明日に続く

           

          再掲記事【2013年4月6日0時】

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          自己紹介「坂本ですが?」-3

          2017.02.03 Friday 00:00
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            坂本ですが?-3【右画像:佐野菜見『坂本ですが?』】

            昨日記事の続き)
            M君、ものすごいハニカミ屋さんでした。なので、遊びに行くと必ず人生ゲーム、ファミコンなどのゲームをしました。マリオなど、ね!懐かしいっす。

            当時、(少年ジャンプみたいな)月刊コロコロコミックという漫画集に、「ゲームセンターあらし」があり、「ギャラクシアン」「パックマン」などのゲーム攻略に繰り出す技があって、「ウォーッ!●●〜!」など技名を連呼、バカ笑いしながらTV画面に立ち向かっていました、2人。

            地方の公立中学を出て、公立高校に入学した私、まだ進路は決まっていませんでした。

            音楽好きが昂じてバンドの掛け持ちをしたり、部活したり、テキトーに過ごしていたのですが、高校2年の時、真剣に自分に向き合った結果、医学部を目指すことにしました。

            自分が死の淵を歩いたこと、徐々に動けなくなっていくM君に接しながら、考え抜いた帰結でした。それから約1年半は、もう死に物狂い!明けても暮れても勉強。でも時既に遅し!現役合格はできず、浪人生活に入りました。

            東京に出た私、裕福な家庭でもなく、1年間限定の約束で「背水の陣」だったため、精神的な余裕がなかったんでしょうね。M君の家に行くことはできませんでした。その代わり手紙のやり取りをしていました。

            浪人生活半年を過ぎた10月末、「M君が亡くなった…。前日の夜までは普通だったけど、朝布団で冷たくなっていた」と突然の訃報が、電話で告げられました。青天の霹靂。(明後日に続く

             

            再掲記事【2013年4月4日5時】

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            自己紹介「坂本ですが?」-2

            2017.02.04 Saturday 00:00
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              坂本ですが?-5昨日記事の続き)
              小学校に入学した直後、私は同じクラスのアクツさんに初恋をします。…いやいや(×2)、そこじゃなかった。M君に初めて出会います。彼は私の生涯を左右したkey manです。近所に住んでいたんですが、お互い病弱だったのと、自分が幼稚園に通ってなかったため、それまで遭遇しなかったんですね。

              M君は、ある病気をかかえていました。同じクラスになった2人は、活気のある小僧たちと行動を共にすることは少なく、図書館やら教室やらインドア派、悪く言えばネクラ(これも死語か?)だったと思います。それでも楽しかった。

              通っていた小学校、山の上にあるんです。街を見下ろせるくらい高い山で、通学するのも一苦労でした。

              私が脳炎を患った話をしましたね。無事、退院したのですが、通学を許可するために小学校側が両親に提示した条件は、1学期は自家用車で送り迎えすることでした。もの悲しいVIPやね〜。1学期も過ぎ、晴れて自家用車を卒業しました。体力がない自分、坂道を登るのがきつかったのを覚えています。

              そんな私にとってのペースメーカーがM君でした。病気のM君、歩くのが残念ながら遅いんです。ですが、彼にとっても私はペースメーカーだったのでしょう。彼と歩くのが楽しくて、ゆっくり歩きながら道端の小川やらタンポポやら、みんなが見落としているものを見ていたような気がします。お互いが一番の親友でした。

              その後3年が過ぎ小4の春、車で約1時間離れた地へ、親の仕事の関係で転居しました。それまでに気管支喘息で「アスゲン」という漢方製剤にお世話になったり、バンキーという吸い玉(東洋医学の一手法)を親に施行されたり、病弱三昧(←「食いしん坊バンザイ」みたいでイイなぁ)だった私ですが、転居した頃はめでたく第二次性徴期にさしかかっており、もう学校はほぼ休まなくなっていました。でも「前へならえ!」の号令で両手を挙げることができず、一番前で右手を腰にあてる役割をスタイリッシュにこなす私でした。

              一方、その頃のM君は少しずつ病気が進行し、1人で通学するのが困難な体力になりつつありました。小6の頃だったと記憶しているのですが、学校へ通うことができなくなり、自宅へ先生が来てくれる自宅学習となりました。M君は友人とは疎遠となり、自宅に遊びに来るのは私だけとなりました。

              父の車に乗せてもらい、春休み、夏休み、冬休みを利用して、互いの家へ遊びに行くのが、お互いの楽しみとなりました。そんな関係は高校卒業まで続きます。毎年ね。珍しい関係でしょ?遠距離恋愛もここまでは続かんわなぁ。(明日に続く

               

              再掲記事【2013年4月3日0時】

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              自己紹介「坂本ですが?」-1

              2017.02.05 Sunday 00:00
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                坂本ですが?今年の元旦から始まった「どうよ東洋」、1Q(四半期)を終えた私です。私ですか?「坂本ですが?
                漫画の高校生、坂本のようにスタイリッシュに生きています(・・・April fool続いてます)。

                さて、元旦の記事で「詳細な自己紹介は、また後日に」としながら、ここまで引っ張ってきました。左のprofileに目を通してもらえば、大体の坂本ヒロミツ像は分かるかと思います。3ヶ月分の記事中にも少しずつ、自己紹介を散らしてます。


                ちなみに尊敬する人からペンネーム「坂本」を名乗りますが、大方の予想を裏切り、坂本龍一の坂本ではあ〜りません!坂本教授が大好き、尊敬する人には違いありませんが、由来は別にあります。これは将来、私が本を書きたいと思っている人物なので、その名前はまだ自分の中だけに収めておきます。

                父は牧師、母は宣教師(共に日本人ですよ)で、生活は楽ではなかったはず。幼稚園は出ていません。そこの、お受験ママ!大丈夫。幼稚園なんか出なくたって医者になれる!「ハッキリ言うけど、タコの芸歴なんて関係ない!」(東京イミフハイスクール)。

                親が目を離したスキに、母子手帳をてんぷら油の中に投入するという離れ業を、私、幼児期に達成しました。たぶん全国の小児科医を集めても、そんなバカな子に出会った者はいないでしょう。当然ですが、実家に保存される私の母子手帳はセピア色です。カセットテープを分解したり、好奇心旺盛な子だったそうです。

                私が幼少時、脳炎を患った時、主治医は両親にこう告げました。「覚悟して下さい。死んでもおかしくない植物状態(寝たきり、意思疎通のはかれない状態)になる可能性が高い。」…でもこうして生きてます。ちょっと変わり者なのは、この時の後遺症でしょう!

                幼少期〜小学校時代は病弱で、特に小学校1年生の時、あまりに病欠日数が多いため、留年(原級留置)となるはずでした。ところが、担任のK先生が「大丈夫。私が責任を取ります。」と職員会議で身を盾にしてくださり、無事進級したのでした。他界されたK先生、心から感謝しています。

                その小学校1年生の時、ある少年と運命的な出会いをします。(明日に続く

                 

                再掲記事【2013年4月2日1時】

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