「君」って誰? サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて(キャッチャー・イン・ザ・ライ)』と小沢健二『痛快ウキウキ通り』の不思議な関係。

2013.12.28 Saturday 20:30
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    キャッチャー・イン・ザ・ライクリスマス前に紹介した曲、小沢健二『痛快ウキウキ通り』。 「実はよくよく聞くと変。どこが変なのか分かる?」と書いたけど…君、分かった?このマフラーを巻いて街に出た男、まだ「君」に出会っていないえっ?!

    「プラダの靴が欲しいの」


    このセリフは正に「君」なる女の子が発したことばじゃないの?実際、あの星野源も最初は「プラダの靴」に「チャラチャラした」イメージがつきまとって歌詞の深さに気付かなかった(末尾で紹介)ようだし 、明るい曲調でサーァッと聞き流しやすいんだけど…

    「クリスマスイブも過ぎて1年遅れで買うプレゼント 遅れてごめん!残念無念! 済まない気持ちはサルにもあるとか言うけれど」

    …さすがに1年遅れじゃなくて、まずは謝って買うよね?

    「それでいつか君と僕とは出会うから」

    …えっ?「君」って男の中の妄想なのか?

    そう妄想なんだろうね。男は「君」とまだ出会っていない。そもそも「君」とは自分自身なのかもしれない。そう考えると 結構、こわい曲でもあるんだよねぇ。

    以前紹介したJ.D.サリンジャー小説『ライ麦畑でつかまえて』を村上春樹が翻訳しなおしたものに、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』があるんだけど、 この村上春樹翻訳を読むと『痛快ウキウキ通り』の深さが分かると思う。

    この曲の男は、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の主人公 ホールデンの映し鏡なんじゃないか、そう私は思うんだよねぇ。ちなみに調べてみたけど『痛快ウキウキ通り』と『ライ麦畑でつかまえて』の類似点について述べたブログや本は、今の段階では見つけられなかったよ。

    小説のネタバレはしたくないので、詳細は書かないけど…ホールデンは16歳の男の子。ある事情で学校を退学させられ、クリスマスシーズンに都会の故郷、 実家へ戻る。ねっ!オザケンの曲もクリスマスだよね。

    しかし恥のためか親に連絡をとれず、実家にもコソコソ泥棒のように入り、親に会わず雑踏へ戻る。旅人のように都会の中でさまよい続け、17歳で療養所と思われる施設に入所しているホールデン。

    「こうして話を始めるとなると、君はまず最初に」の書き出しで始まる『キャッチャー・イン・ザ・ライ』。ホールデン自身がひたすら「君」に向け語りかける形式でこの小説は進んでいくんだけど、アクセルを踏まれるように次第に描写が病的になっていく。

    SEXしたくてたまらないのに経験がないもんだから強がってみたり、金に困っているのに金をあげようとしてみたり少年特有のドタバタぶりがいとおしい反面、殴られたり友人の自殺の描写など「イタミ」を表現したエグイ箇所が多いのもこの小説の特徴だろうねぇ。

    さて『痛快ウキウキ通り』に戻ると、そもそもこの「痛快」ってのもウキウキした楽しさから来てるのか、逆に 「イタイ」男の「痛快」なのかは判然としないんだよね。歌詞にも「唾を吐き」「しびれっぱなしの手」「鼻水出りゃこすりながら」「痛快に…歩いてく」と、青年特有の「イタミ」「強がり」があるように私は思うよ。淋しさが入り混じる歌。都会のブルース。

    ホールデンもウキウキ通りの男も神経症の要素が多いんだと思う。そして「隅々まで空虚に都会化された現代」、 グローバリズムってヤツは神経症を生み出す下地があるように私は思うんだよねぇ。この曲の歌詞に「クラクション鳴らして車が走っていく」 とあるけど、クラクションは私にもそして「君」にも鳴らされてるのかもしれないぜ?

    最後に村上春樹、柴田元幸(小沢健二が東京大学で師事した教授)の共著『翻訳余話2 サリンジャー戦記』にある、こんな会話を。

    村上「本当はこの小説の中心的な意味あいは、ホールデン・コールフィールドという1人の男の子の内面的葛藤というか、『自己存在をどこにもっていくか』という個人的な闘いぶりにあったんじゃなかったのかということなんです。」

    柴田「対社会ではなく。」

    村上「対社会ではなく。もちろんそれはあるわけなんだけど、それよりはむしろ、自分自身の意識状況とのせめぎあいというほうに、重みが込められているんじゃないか、という気がしたんですよ。だから、訳すときにも、そういう視点から物語の全体を眺めていくというところはありましたよね。視座の据え方というか。」

    柴田「そうすると、『君』がどこにいるのかが大きな問題になる。」

    村上「そういうことですね。ひとつの考え方としては、『君』というのが自分自身の純粋な投影であってもおかしくないということです。それがオルターエゴ(もうひとつの自我)的なものであってもおかしくない。そうじゃないかもしれないけど、いずれにせよ、そのへんの感触は大事なんじゃないかと。」

    星野源の『痛快ウキウキ通り』解釈(ラジオ番組:RADIPEDIAより)

    category:Music | by:坂本ヒロミツcomments(0)trackbacks(0) | -
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